井村慎二 ~最果ての地~ 短篇小説

 

港町の駅前を港町警察鑑識課職員井村慎二が足早に署に向かっていると、誰かが彼を呼び止める声が聞こえ、後ろを振り返った。

「そこの君、私の言葉に耳を傾けなさい」

 

「はぁ、あなた誰ですか? 僕は急いでるんですから、勝手に話し掛けないで下さい。キャッチセールスの類は一切お断りです」

 

井村はうるさそうに答える。ちらっと声を掛けてきた男を見ると、いかにも怪しげな老人が占い師の使う様なテーブルを前に、街頭に座ってじっと井村の方を見詰めている。顔の骨格は日本人とは程遠い様に見える。

 

例えるなら、ジプシーの様な面影と言うのだろうか。

「第一、貴方ここでの露店営業許可申請出してるんですか?」

井村がそう言い掛けると、

 

「私は予言者ノストラダムスです。私は貴公に大切なことを告げなければいけません」男はそう言って、井村の言葉を遮った。

井村は彼の言葉でヤバい相手に声を掛けられたことを直感した。

早くこの場から退散しないといけない。

 

「大切なことですか……」井村はそう言いながら、ここから逃げることが最も大切なことだと考えていた。

「そう、あなたにとってです」

 

そう言ってノストラダムスと名乗る老人はググっと身を乗り出し、斜眼の両目でじっと井村の目を見詰めた。

「占いって、お金取るんですよね? ぼったくりじゃないですよね。そのぅ~いくらですか?」

 

「3000エクスペンシブ、それはお金ではなく予言のお布施としていただきます」

「同じことじゃない~。それでちょっと気になるんですけど、その大切な事とは?」

井村は最初はすぐに退散しようと思っていたのに、何故かだんだんと老人の言葉に引き込まれていった。

 

「そう、私の言葉を聞かないと、貴方には無残な氷のように冷たい死が訪れます」

「えええっ~そんな事いきなり見ず知らずの他人に言う人いますかぁ? 失礼な人だなぁ~まいったなぁ~」

井村は自分に死の宣告を行う老人に、怒りを込めた視線で反論を返した。

 

「パ、パ、パ、パワハラを飛び越えた言葉の暴力じゃないですか? 問題発言ですよ、今のそれはぁ」

「私の言葉は真実のみを伝えるのです。パワハラでもセクハラでもいじめでも嫌がらせでも言葉の暴力でもありません」

 

「はぁ? 全部当たってるような……」

「良いですか、あなたは最果ての地で冷たく寒い迷い人になる運命なのです」

「はぁ~? 何言ってんですか、意味わかりませんよ」

 

「貴方の後ろに太陽系の最果てで冷たく光る氷の星が見えます。そこは思い迷った人の星、迷いの星と呼ばれています」

「それって冥王星の事ですかね?」井村は「銀河鉄道999」の迷いの星の管理人を思い浮かべてそう聞き返した。

 

「知りません。貴方がそこで生き延びるためには……」

男が重々しい口調でそう言い掛けた時には、井村はとっとと男に背を向けて立ち去ろうとしていた。

しかし男の言い掛けた言葉が気になって、立ち止まった井村はやはり男の言葉の続きを聞き出そうと振り返った。

 

「生き延びるためには……なんですか?」

そう言って、振り返った井村の視界から、ノストラダムスの姿は消えていた。テーブルをたたんでその場から退散するには時間が無さ過ぎる。

 

井村は幻でも見たかのように呆然として、何度も目を擦って周囲を見回したが、不思議なことにどこにも男の形跡は見あたらなかった。

 

その日、井村慎二が署についてパソコンを立ち上げると警察学校の同期生から、横浜中華街で同期会をやると言う「お知らせメール」が届いていた。

 

招待メールに「皆様お誘いあわせの上~」と言う一文が付いていたのを良いことに、井村は港町署配属の半年先輩である桜木も彼の同期会に堂々と誘える口実が出来たと、心密かに狂喜乱舞した。

 

「えっ私も一緒に中華街に、なんで?」

井村から同期会に一緒に行かないか誘われた桜木は怪訝そうな顔で、真っ直ぐ井村の目に視線を合わせ、じっと彼の顔を見詰め返した。

弱気な井村はその桜木の真っ直ぐな視線に耐えられず、耳を真っ赤にして思わず俯いてしまう。

 

一瞬にして桜木に、自分のよこしまな心を見透かされたと思ってしまったのだ。

「そ、そ、それは…ですね。だって桜木先輩も一応、だいたい僕と同期ですよね?」

口調までが、ドモリ始めた。

 

しどろもどろに活舌が壊れた。

桜木をさりげなく誘うつもりが、完全にあがりまくってしまったのだ。

思い描いたシナリオ通りに話が進まないと、途端に彼の心臓は激しく高鳴って止まらなくなって来る。

 

「……中華街まで出るのはちょっとなぁ~……」

桜木は書類にペンを走らせる手を止めて、顎に右手の人差し指を当て、上を見て少し考える素振りをした。

井村は勇気を振り絞って、誘いの言葉を続けた。

 

「すぐですって。港町から中華街は快速電車で15分程度ですから」

ここはどうしても桜木を誘いたいと思う井村は、両手を上下に激しく動かし、両足をよじり合わせ、彼女に猛烈にアピールを続けた。

 

その時、桜木は何かを思い出したようにポンと手を叩いだ。

運命の女神はほんの僅か、井村に味方した様に見えた。

それとも、これこそが悪魔の仕込んだ破滅の罠なのか……。

 

「明後日でしょう、そうだ……私、方向的に中華街ならついでがあるから……」

桜木はそう言い掛けて、システム手帳の予定表にちらっと視線を投げかけた。

 

「それじゃぁ……私、夜は非番だけど署から呼び出しが掛るかもしれないから……コンパはノンアルコールならOKかな? それなら井村君に付き合ってあげても良いよ」

桜木はそう言って、彼の方を見て、にこっと微笑んで小首をかしげだ。

 

「やった!!」

井村は小躍りして喜んだ。

勝利の女神が井村に微笑んだ。

 

今回、港町署からは出席者は先輩と僕の二人だけ、酒の勢いを借りてだが遂にこの日こそは先輩に自分の熱い胸の内を告白する最大のチャンスが廻って来たんだと、内心彼は小躍りした。

 

「それじゃぁ、ボク鑑識課に戻りますね」

そう言いながら、刑事課のドアを開けて井村はいそいそと出ていった。

その直後……

 

ガラガラガッターーーーン!!

桜木の席を離れて、刑事課を出て鑑識課に戻ろうとした井村は、廊下を浮かれてスキップを踊りながら進んで、いきなり降り階段の一段めを踏み外したのだ。

 

その音に桜木は慌ててデスクから飛び出して廊下に走り出て、階段の下の方を覗き込んだ。

「大丈夫、井村君~」

踊り場で逆さになってM字開脚状態で頭を踊り場の床に押しつけた井村が、声だけ軽やかに答える。

声色と無理な態勢が全く釣り合わない。

 

「あははは、どうってことありませんから~。まあこれも一つのゲン担ぎってことで」

「はぁ、なにそれ?」

桜木は井村が何か意味のないことに、見栄を張っていると思った。

 

ゲン担ぎどころか、打ちどころが悪ければ大怪我をしているところだ。

「いやなに、落ちたのはわざとですってこと。ははははっ」

井村は何ともないと言う顔だ。

 

桜木はホントに大丈夫と言う表情で、眉をしかめて心配そうに井村を見た。

すると井村は

「人の運は一定だとすると先に悪運を使ってしまえば、幸運を後に残せるって事じゃないですか~はっはっはっ」と言ってのけた。

 

「そう言うものなの?」

桜木は井村の言葉が負け惜しみにしか聞こえなかったが、全身打撲の彼を可哀想に思い、一応彼の言葉に納得したように頷いて見せた。

 

「同窓会に私が行くのがそんなに嬉しいの? あの~井村君誤解しないで欲しいんだけど、明後日は方向的に中華街だったら仕事のついでだなと思っただけで……」

「もちろんです!! それでも嬉しいなぁボクはぁ~」

 

コンパの当日、桜木は井村と最近出来たちょっと話題の中華街の目抜き通りにある小洒落た中華料理屋に入った。

そこで一時間もすると、桜木はスマホを取り出してこう言った。

 

「あ、ごめん。署から招集がかかったわ」

あっさりとこう言って、無心に井村の方を見る。

井村はと言うと、既にビールとウイスキーのラッパ飲みで、店についてまだ一時間ほどしか経っていないのに、かなり出来上がってしまっている。

 

「僕はですね、自慢じゃありませんが乾杯の後一時間以内に意識を失ってないことはありませんから。今日は意識を正常に保ってる。これは井村ギネスもんですよ~、ギネスもん~ドラえもん~」

 

井村がふざけて見せた。それをシカトして桜木が言う。

「それじゃあ私、お先に失礼します」

 

「えっ……」井村の口が大きく空いたまま、固まってしまった。

そう言って、桜木は少し多めに財布から現金を出して、幹事にお金を渡して席を立とうとした。

酔った頭の井村には、それがどういうことを意味しているのか、もはや認識が追い付いて行かない。

 

「あうっ……えっ……? ? ?」

ここで桜木先輩にあっさり帰られては、彼が急いで酔った意味が無くなってしまう。

井村は酒の力を借りて、今日こそは桜木に自分の気持ちを伝えようと心に決めていたのにだ。

それを必死に思い出そうとするが、この時既にアルコールが彼の思考を空回りさせている。

 

「招集って何ですか? 消臭リキット~かな?」

井村が何か大切な事を思い出そうと、見当違いなことを喋り始めた。

 

「今日は井村君のお付き合いで中華街の飲み会までは来たけど、私、担当事件の処理があるからアルコール入れないで署から呼び出しがかかるまで、ここでスタンバイしてたの。お誘いを受けた時、私確かにそう言ってたよね? 井村君に」

 

そう言って桜木は井村に念を押した。

「ですよねぇ~」と言い掛けて、井村は少し状況を認識し始めた。

「そうかぁ~それで今日は桜木先輩今一飲みのノリが悪かったんですね、先輩~そりゃぁ連れないじゃないですかぁ~」

 

「もう、酔っぱらいなんだから、井村君ったら。カラミ酒~」

「帰っちゃ嫌ですぅ~先輩」

井村は座敷席で寝転がり、半分に丸めた座布団を抱きかかえて、ゴロゴロ転がって駄々をこね始めた。勢いで抱え込んだ座布団相手にしきりに腰を振っている。

 

それを見て桜木はかなり恥かしかったが、井村の精神年齢と酒の酔いを考慮に入れ、今日は何も見なかったことにしてあげようと思い、その場で井村に背を向けた。

「いくら新人の同期会だって、井村君もあんまり飲み過ぎないように、適当にお酒は抑えた方が良いわよ」

 

「当り前ですよ。桜木先輩のいない飲み会なんて、僕にとっては精彩を欠きます。もう僕も帰らせていただきます」

「じゃあ、私先に行くね」

 

「あっあっ一緒に出ます。僕も」

井村は慌てて桜木の後を追うように席を立った。

「私、時間ないもん。じゃあお先に」

 

「待って待って~帰りますよ、帰ればいいんでしょ」

そう言って井村は、慌てて同期会の幹事に自分の分の会費を押し付け、桜木の後を追って店を飛び出した。

大通りに飛び出した井村は、急いで歩道の左右を見回し愛しい人の姿を探したが、繁華街の人ごみに紛れたのか彼女の姿は、もうどこにも見えない。

 

おまけに財布やスマホやパスモをいれた上着を店の中に忘れてきたことに気が付いた。

そう言えば鞄も持ってない。鞄には警察手帳が入っている。

仕方なく店に戻らなくてはならないと井村は落胆した。

 

「あああっせっかく署の階段から落ちてまで、悪運を先使いしたのに……。あのくらいでは足りなかったのか……。それともこれも一つの悪運の先払いなのかなぁ」

危なげな足取りで階段を降りて、店内に戻った井村は当然のようにさっきまで居た自分の席に座って、上着と鞄を確認し、なんとなくホッと一息ついた。

 

周囲を見回し自分のグラスを発見した井村は、いとも自然に酒の続きを煽り始めた。

「あれっ僕は何をしてましたっけ?」

鶏の反応だ。

 

既に完全に酔いが回って、一瞬前に考えていたことが何かわからなくなっていたのだ。

井村は決して酒が好きなわけではない。

しかもビール一杯で酔える安上がりな体質だ。

 

「井村、お前大丈夫か? さっきからうわごとみたいに運命の人がどうしたこうしたって……」

「えっ……僕がそんな事言ってたんですかぁ~?」

うたたねしてた井村は同輩の磯野に揺り起こされて、恥ずかしそうに答えた。

 

「ああっそんなこと言ってたよ、うわ言みたいに……」

そう言われた井村は眠ったまま手に持っていた大ジョッキが空の事に気づいた。

「サワーおかわり!」

 

井村は威勢よく店の女の子に声を掛けた。

「おいおい、行くねぇ」

磯野がそう言って囃し立てた。

 

どうやら席に戻ってうたたねをした彼は、桜木の事を一時的に忘却してしまった様だ。

井村が桜木の事を忘れると言うのは、彼女が帰ったことを認めたくないのか、よほど酔いが、頭に回った末の事なのか……。

 

それから、約2時間が経過した。

「おい、井村君起きろ、起きろ」

幹事の田中が井村を激しく揺すっている。

 

「ああっもう飲めましぇん~」

井村は両手を左右に振りながら、寝ぼけてうわ言を言っている。

「帰らないと、みんな帰っちまうぞ」

 

「行きますよ、行きますよったら」

そう言ってやっと起き上がった井村は上着を羽織り、鞄を持って靴を履いた。

「それじゃあ、帰りの電車で寝過ごしたりすんなよ~。お休み」

そう言って店を出た同期の顔見知りの男女数人は、思い思いの方向に散って行った。

 

「はぁ~い、お休みなさい。それにしても桜木先輩連れなかったなぁ~。ぼくを置き去りにして、先に帰るなんてなしだよなぁ~。もう今日の僕は最悪ですよ」

誰に愚痴るわけでもなく、井村は一人ぶつくさ言いながら腕時計を見た。腕のデジタル時計は22時に近い時間を指している。

 

かなり迷酔していたが、まだ終電には十分間に合うと思った井村は駅に向かって一人よろよろと歩き出した。

駅に着くまでの間に、電信柱と2回、立て看板と3回お友達になる。

地下鉄の駅が見えた。元町中華街と表示が出ている。

 

「あれ、関内じゃなかったですかぁ~? 表示違いますよぅ~」

そんなことを言いながら、井村は地下に向かう階段を千鳥足で降りていった。

とりあえず、横浜で乗り換えて自宅のアパートのある港町まで5分ほどの距離だ。

 

まだ終電には十分時間がある。腕時計で時間を確かめ、そう考える井村だった。

そこで彼は階段を降りてかなり泥酔した頭で、パスモを取り出して改札を抜けた。

 

ホームに到着した電車は空いていた。横浜方面は元町からなら上りになる。11時近いこの時間に乗車客は少ない。

井村は空いている席に、倒れ込むように座り込んで足を延ばし、窓ガラスに頭を付けた。

「駅、3つくらいで横浜だから……」

 

井村は寝過ごさないように、集中して車内のTVの広告を見て、横浜までしっかり起きていようとモニターに目を凝らした。

しかし残念なことにそれから1秒もしないうちに、井村は熟睡モードに入ってしまった。

 

「お客さん、お客さん起きてください。終点ですよ」

熟睡している井村の肩を駅員が揺すった。

 

井村からするとまだ数分しかたっていない感覚なのに、終点とは如何に……と思って驚いて目を開けた。

 

「ああっはぁ~、終点? 何言ってるんです、僕は横浜で降りないといけないんですよ。終点ってどういうことですか? 横浜終点のメトロなんか聞いたことありませんから。ははぁ~これはぁ年末の「ドッキリ素人いじりの特番」とかですね。分かっちゃったぁ~」

 

井村は当惑して、頭を左右に大きく振った。

「お客さん、ここは森林公園です。東武東上線の終点ですよ」

 

駅員は困った顔をして、言い辛そうに井村にそう告げた。

その駅員の顔が、井村からはとても意地悪そうな表情に見えた。

 

「駅員さん、からかっちゃいけない。何言ってんの? 僕は元町・中華街でみなとみらい線に乗ったんですよ。いいですか、横浜市です。それが何で……いったい森林公園って何県のどこですかぁ?」

 

「埼玉県さいたま市です。ははぁ~最近私鉄や地下鉄が繋がって直通運転になっちゃったからねぇ。お客さん横浜方面から来たんだね。そりゃ大変だったね。時たま居るんだよね、そう言う酔っぱらった方。だいたい都心部からの寝過ごし組ね。でもね~残念、今日はもうここから東京横浜方面に戻る電車はないなぁ。何しろもう0時過ぎちゃったからね。上りの終電は終わっちゃったね。ホントに残念だなぁ~」

 

まるで他人事の様に明後日の方向を見て駅員はそう言い放った。

その後、井村の存在はどうでもいいような大あくびを始めた。

「ななななっ何言ってるんですかぁ~。僕は帰りますよ、帰らないといけないんだ」

 

井村はここは何か異議を唱えないといけないと強く感じて立ち上がった。

「お客さん冷静に。いいですか、みなとみらい線は東急東横線に直結して、そこから副都心線に直結して、それがここに向かう東武東上線に直結してるからねぇ。お客さんは寝ながら長い旅をしてたんですねぇ。距離にして88,6キロメートルほど移動してきたんですな」

 

井村はさらに駅員の表情が意地悪く残酷に見えた。

「はぁ~はぁ~冗談でしょ」

井村は現実を否定しようと激しく手を振った。

 

駅員は可哀想な子供でも見るような目つきで、井村に教え諭すように言葉を続けた。

「お客さん、とりあえずこれで終電だから。電車は車庫に入りますから。駅のシャッター閉めるから、残酷なようですが、冷たいことを言うようですが、駅の敷地の外に出て下さい」

 

そう言って駅員は井村の目を見ずに、両手を仰ぐような仕草で急き立てた。

「残酷だよ、鬼だぁ~」井村は思った。

「はい、あっちが出口になっております」

 

ホームに降り、まだ事態を把握しきれていない井村に、駅員は改札口のある方向を指差して出ていくように指示した。

 

「そんな……僕はどうしたらいいんですか。ここから横浜方面に帰りたいんですよ」

井村はその場で彼から解決策を聞くまでは、ここから動かないと言う様な顔をして駅員を睨み付けた。

 

駅員は仕方なさそうに、喋り始めた。

「そうねぇ~お客さん、どうしても帰りたいならタクシー乗り場に行けば、この時間でもタイミングが良ければタクシーが来てるかもしれませんよ」

 

「そんなぁ~ここから横浜方面までタクシー使ったら、幾ら掛ると思ってるんですかぁ」

「それじゃぁ300メートルほど先にコンビニがありますから、そこで始発まで待つって言うのもありですよ~。始発は4時50分です」

駅員はそう言いながら、井村を改札の外に押し出して、無常に駅のシャッターを閉め始めた。

 

季節は12月、忘年会のシーズンで北風が強く吹いている。

駅の外のベンチに座り込んだ井村は完全に途方に暮れていた。

「ここまで不運を浴びれば、この後はもう幸運が舞い込むしかないはず……」そう思おうしたが、事態があまりに深刻過ぎて井村のテンションはどんどん下がっていった。

 

椅子に座ると、またしても強烈な睡魔が襲い掛かって来た。

「ダメだ、ここで寝たら僕は凍死しちゃう。寝ちゃだめだ。寝ちゃだめだ」

そう言って、井村はよろよろと立ち上がってタクシー乗り場を探して歩いた。

 

タクシー乗り場は駅からそう遠くない場所に見つかった。そこには待ち車はなく、客が一人寒さに震えながら、来る当てもないタクシーを足踏みをして待っていた。

「いったいどのくらい待ったらタクシーは来るんだろう」井村はもしかしたら、今日はもうタクシーは来ないのかもしれないと不安になった。

 

周囲は何もなく、薄暗い街灯がポツンポツンと道を照らしている。

「それなら、コンビニで暖を取ろう」と井村は考えを変えた。

井村がよろけながら、なんとかコンビニに辿り着くと、信じられないことにコンビニのシャッターは、目の前で閉まり始めていた。

 

「ああっ店員さん、なんでお店閉めちゃうんですか?」

「最近は不景気でね。こんな終点駅では電車が止まった後には、もう誰も客が来ないんだよ。だから閉める事にしたんだ」

 

「そんなぁ~開けといてくださいよ、今日だけでも」

「お客さん、これも本部の指示なんで仕方ないんだよ」

「困った、どうしたら良いんだ?」

 

その時、井村の横をタクシーが通り過ぎた。見るとさっきタクシー乗り場で待っていた客が乗っているではないか。

来る当てもないタクシーが来たのだ。

 

「待ってくれ、そのタクシー、僕も相乗りさせて~」

そういって井村は手を振りながらタクシーの後を追いかけて夢中で走り出した。

追い掛けて来る井村に気が付いたのか、タクシーは数メートル走って止まった。

 

「良かったぁ~」

タクシーの後部座席のドアが開いたので、井村はそのまま後部座席のシートに転がり込むよ

うに乗り込んだ。

 

酔った頭で、ダッシュしたものだから井村の頭は酒が回って、グラグラと激しく周囲の景色

を歪め始めた。

「お客さん、相乗りさせてください。むろんお金はカードで払いますから」

 

そう言って井村は後部座席のシートに乗り込んで一方的にお客に頼み込んだ。今の井村にとって藁をも掴む気持ちだった。

その言葉を聞いてタクシーに乗っていた客は「貴方も困ってるんですよね。困ったときはお互い様ですよ」と言って、快く相乗りに同意してくれた。

 

客は初老の眼鏡を掛けたサラリーマン風の男だ。

井村は思った、残業で遅くなって、帰りに終電を逃したのだろうか。それともひょっとして自分の様に酔って寝過ごした同類なのかも知れない。

 

「お互い様」という言葉を聞いて井村は「助かった~」と感じて深く安堵した。

そして、そのまま再び深い眠りに落ちていった。

 

「お客さん、起きて下さい」

その声で井村はやっと深い眠りから覚めた。

 

「僕はここで降りますから、お客さん一緒に降りるなら、割りカンでここまでのタクシー代金払ってください」

さっき井村を優しく同乗させてくれた初老のサラリーマンが、彼の方を見ていた。

 

「それとも、このままこのタクシーにもっと先まで乗って行かれますか?」

同乗していたお客にそう言われ、半覚醒の井村はとりあえずそこでタクシーから降りる事にした。

 

井村はどこいら辺まで、横浜方面に戻ってこられたか知りたかったのだ。降りた場所が港町に近ければそこから自宅のアパートまで歩くか、またタクシーを拾い直せばよいと思ったからだ。

 

「で、おいくらですか?」

目を擦りながら、井村は背広の上着のポケットの中からクレジットカードの入った財布を探した。

 

「4万5千円だから、お客さんは22500円」

メーターを止めたタクシーの運転手が、二人の客の会話を聞いて井村に向かってそう告げた。

 

「ええっ高いなぁ。でも割り勘にしてもらって助かります」

井村はカードの残高を気にしつつ、頭を下げた。これで今月は限度額ほぼ限界だと思った。

「いやぁこちらこそ」

 

そう言って相乗りさせてくれた客は礼を返してくれた。井村の頭裏に素朴な疑問が再び頭をもたげ始めていた。

「ところでどこまで走ったんですか? いったいここはどこなんですか?」

 

金額の話をして、井村はほんの少し目が覚めたようだ。

タクシーから飛び出した井村は急いで周囲の風景を見渡した。信じられないことにそこは先ほどまで居た都心の辺境に見えた森林公園駅周辺より、さらに寂れている場所のように思えた。

 

山岳地帯のどこかの様だ。とても港町の近くとは思えない。

井村の顔からさっと血の気が引き始めた。

井村の慌てた態度を見て、先にタクシーから降りた同乗者のサラリーマンがこの場所の説明をしてあげようと彼の肩を叩いた。

 

「お兄さん、ここは上田だけど……、信州の。僕は工事現場の勤務地が森林公園なんで事務処理に時間が掛かって終電乗り過ごしてね。お兄さんこっち方面じゃなかったの?」

「違います。僕は、僕は……横浜なんです」井村は力なくそう答えた。

 

「だったら、なんでタクシー止めてまで、相乗りなんてしたの?」

その問いに井村は何も答えられなかった。

ただ口がパクパク動いているだけだった。

 

そのままタクシーは走り去り、男がどこかに消えて、しなの鉄道上田駅のシャッターにもたれ、井村慎二は一人呆然と立ちすくんでいた。

上田駅は明かりが消えて静まり返っている。周囲には街頭以外明かりもコンビニの看板も見えない。

時刻は3時半を回っていた。

 

カードは限度額になり、現金の持ち合わせは小銭だけ、周囲には暖を取れる場所が見あたらず、人っけがまるでない。上田は標高があるのか、深夜になって気温がかなり下がって来ている。

体感温度は零度より遥かに低い。

 

「ここで寝たら、絶対凍死する」井村は自分が置かれた状況は完全に詰んだと思った。

井村は何度も周囲を見渡し何かないかと探し続けた。どこでもいい暖を取れる場所を探さないと。

 

「そうだ、今さっき相乗りした男性の家に止めてもらえないか?」それに気が付いた井村はさっきまで同乗していた男の姿を探した。

気が付くのが遅かった……。男の姿はすでにどこにも見当たらなかった。

 

男の去った方角によろよろと歩き始めた井村はそこで、一軒の薄明かりが付いた看板に目が行った。

 

スナック「迷い星」看板にはそう店の名が書かれていた。

井村は昨日港町駅の商店街で会った怪しい占い師の不確かな予言の言葉を思い出した。

もしかして、迷いの星とはこのことなんだろうか……井村はアルコールで酩酊した頭でその事だけを思い出した。

 

この店には入ってはいけないんだ……井村はそう思うと、店の暖簾をくぐらずにそのまま薄暗い寂しい道をとぼとぼと歩き始めた。

実はそのスナック「迷い星」の店内には、港町署のお茶ノ目洋子がいた。

 

その店はお茶ノ目の実家の近くの親戚筋のスナックだった。

お茶ノ目はその日、偶然にも法事で休みを取って実家に戻って、幼馴染たちと親戚筋の店で昔話に花を咲かせていたのだ。

 

もし、この時井村が店のドアを開けていたら、店の中で彼は暖を取って休めただろう。東京方面に帰る交通費も借りられ、この後起こる更に最悪の事態を免れたかも知れない。

しかし井村はその最後のチャンスをあっさり棒に振って、歩き去ってしまったのだ。

 

井村は、朦朧とした思考で、こんな田舎に整った道路は国道しかないと思ったりした。

それまで車一台走っていなかった道に、突然一台の大型トラックが、彼の歩く方向から通り掛った。

 

その車のヘッドライトを見た時、井村は咄嗟に車道に飛び出した。

走ってくるトラックの前に立ち塞がったのだ。

井村はもはや必死だった。このチャンスを逃したら、自分には冷たく寒い死が間近に迫っていると切実に感じていたからなのだ。

 

これがサバイバルの最後のチャンスだと。

「危ないだろう。急に車道に飛び出して何やってるんだ!!」

トラックの運転席からベテランそうな長距離トラックのドライバーが、顔を出して井村の方を見て怒鳴りつけた。

 

「すみません。一生のお願いです。僕を車に乗せて下さい。ヒッチハイクです」

井村は深々と頭をさげて、ドライバーにお願いした。

「やだよ、そこをどいてくれ。こんな時間にこんな場所で人なんか乗せられるか。危なくてしょうがないだろう。車の前から退けよ」

 

ベテランそうなドライバーは、周囲を警戒して井村を道路から退かそうと手を振った。

「そう言わないでお願いします」そう言って井村はトラックの前で、道路に額を擦り付けて土下座した。

トラックの運転手は井村の人相、態度を見て、さすがに強盗とかではなさそうだと思ったのか、手を挙げて井村を助手席に乗る様に、合図して見せた。

 

「ありがとうございます」そう言って井村は何度も顔を上げ、眼に涙を浮かべていそいそとトラックの助手席に乗り込んだ。

「あのう、大切なことを一つ聞いていいですか? このトラックは港町方面に向かってますか?」

 

「ああっ湊町なら通るな。そこまで乗せてってやるよ」

「ホントですか。港町知ってるんですか? 助かります。感謝します」

 

「知ってる、知ってる。国道4号通るからついでに寄ってやるよ。俺はさぁ~、長距離やって長いからさぁ、道は詳しいんだよ。でもね、夜道で人を乗せるの警戒しちゃうんだよね」

「分かります。乗せてもらって本当に感謝します。九死に一生です。今日の事は一生恩にきます」そう言って、井村はドライバーに繰り返し頭を下げ続けた。

 

井村は安心したのか、そこでそのまま深い眠りについてしまった。

 

「起きなよ、兄ちゃん湊町に着いたよ」

「ああっ~もう港町ですかぁ。良く寝ました。ありがとうございます」

 

「それじゃあ、俺は行くからさ。確かに大字(おおあざ)湊町に届けたぜ」

「ありがとうございます」

 

井村がそう言って頭を下げると、トラックはすぐに車道に出て、走り去って行った。

井村が顔を上げると目の前に道路地図があった。そこには街の名前が記載されていた。

 

井村は何度か目を擦って、目を凝らしてその看板に書いてある地名を見詰めた。

そこには「青森県八戸市大字湊町」と書かれていた。

「青森県の湊町……」井村の目が点になった。足元の地面が回転している幻覚に襲われた。

 

そう言えばドライバーは、井村をトラックに乗せる時、国道4号線に向かうと言っていたことを思い出した。

太陽は既に天高く上がっていた。

 

元町中華街を出て半日以上、既に井村は本州の最果てに近い湊町に来ていると実感せざるを得なかった。

「どうしよう、警察無断欠勤になっちゃった……。桜木さんになんて言おう、心配かけちゃったかもしれない」

 

道向こうに派出所が見えた。

何の救いもない井村は、ふらふらとそこに向かって歩き出した。

そこは最果ての地、迷いの星の様な土地……大字港町だった。

 

東北漁村
東北漁村

 

おしまい

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