刑事大打撃 コミックス版 原作
~ミッドウェイ夫人の陰謀~
登場人物
〇仏刑事 港町署 捜査一課刑事 年齢 70歳前後。身長165㎝。 長く殺人事件の捜査の第一線で活躍し、外見はベテラン刑事だが内面から、着々と老化が進んでいる。アルツハイマー的言動が目を惹き、周囲は引退を勧めている。
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港町駅前商店街で、覆面の上にマスクをして、黒いコートを羽織った犯人が、駅に向かって繁華街を逃走している。その後ろから追い掛けている大打撃と桜木巡査。
桜木が前方30メートルほどの人混みを走り抜ける黒い男の影を見つけ、指差して大声で大打撃に教える。
「大打刑事、その人がぁーーーーー犯人です!!」
桜木巡査は息を切らせながら、繁華街を小走りに去る黒いコートを着た男を指差してそう叫んだ。
彼女は港町署の捜査一課の刑事の中でも、観察力が鋭いと署内では評判の巡査だ。
その日、彼女は大打撃と、凶悪犯を追っていた。
追っているのは、銀行強盗を行い、犯行現場で男を捕えようとした宝石店の警備員を殺害した犯人だ。
白昼堂々、午後の港町署商店街での大胆な犯行だ。
「分かった、任しときぃ~」
桜木の指さす方向に犯人らしき人影を見つけた大打撃が、彼女に答える。
男は大打撃と桜木優美子に見付けられたことにその声で気づき、目立たぬように歩調を速め買い物で賑わうショッピングモールの中に紛れ込もうと、人混みに紛れていった。
男はそうして飛び込んだショッピングモールをジグザグに走り抜け、二人の追跡を一旦は振り切ったと確信した。
そこで、男は目の前に見えるラッシュ時が近い16時半のJR港町駅構内に向かって、走り込んでいった。
「犯人を視界に捉え続けているなら、犯行は継続してると考えられる。だから、ここは現行犯逮捕で行けます、大打刑事!!」
桜木は、人並みの中に見え隠れする犯人を、しぶとく目で追い続けていた。
「わっしゃぁら~」
彼女の横を走る大打撃は慌てているせいか良く分からない、短縮形の応答で桜木に応える。
桜木から男は、黒い覆面にマスクとサングラスを付け、服も同様に黒っぽいコートを着ているのが遠目になんとか判別出来た程度だ。
一度見失ったら、もはや犯人の確定は困難になるだろう。
男は構内の改札のフェンスを軽々と飛び越え、片手に強奪した宝石の入った金庫を抱え、駅構内を繋ぐ連絡通路の人ごみに走り込んで行った。
「させるかよ」
大打撃がそう叫びながら、20メートル程前方を走る男を見失わないように、しっかりと男の影を睨み付けながら、彼の後を猛ダッシュで追い続ける。
その時だ!!
不幸にして、大打撃が向かっている連絡通路の進行方向正面にあの(・・)《ブロック婆さん》が出現した。
不幸にもここで、強敵とエンカウントだ!!
彼女は両手に買い物籠を抱え、長ネギの出っ張ったカーゴを右手で引っぱって、大打撃の前に忽然と出現した。
レベル99の強敵だ、大打撃は瞬時にそう悟った。
「くっ……こんなところで《ブロック婆さん》か……」
《ブロック婆さん》とは、特定の個人を指す言葉ではない。
ある年齢の種族を指す総称だ。
大打撃が頭を左右に揺りながら、ゆっくりと通路のど真ん中を歩いてくるブロック婆さんを素早く左に交して避け、婆さんの横を巧みにすり抜け、犯人の追跡を続行しようとした。
その時だ。
大打撃が靴のつま先を向けたその方向に、左右にふっふっと小刻みにフェイントを掛け続けながらストリートダンサーの様に全身を揺すり、婆さんは大打撃の通路を塞ぐ方向左に横移動してきた。
むろん婆さんは、自分に向かってくる「その先を急いでいるように見えるトサカ頭で背広姿の男性」に連絡通路の真ん中を先に進んでもらおうと、親切心で進路を開けたのだ。
実に心優しいお婆さんなのだ。
しかしその実、彼女が取った市民サービス、善意溢れる行動は、悲しいかな見事に大打撃の進行方向をブロックしてしまう結果になってしまった。
「出たな、妖怪ブロック婆ぁ~」
「あらっごめんなさい」そう言って、お婆さんは眉をしかめ慌てて、横に避けようとした。
済まなさで泣きそうな表情になっている。
大打撃はそこで、素早く踏み止まって腰を回転させ、足先の向きを90度変え、右に向かって体を倒すと、その動きを予測出来るわけもないのに一瞬前にブロック婆さんは、すかさず「あらあら、ごめんなさいね」と言いながら、重いカーゴを手首だけで軽々と器用に回転させ、踵を返して大打撃の前に再び仁王立ちで立ち塞がったのだ。
気の小さい婆さんの警察に協力しなくてはいけないと言う緊張感と焦りが、彼女の全身に瞬時に多量のアドレナリンを分泌させ、細腕に怪力を与えたのだ。
桜木から見ると、完全に二人の動きはシンクロしてしまっている様に見える。
「くっ……やるようになったな、このモビルスーツのパイロット……」大打撃が呟いた。
その瞬間、TV画面が斜めにカットされ、大打撃とブロック婆さんの顔が、唇を伸ばせばチューできるくらいの距離で、睨み合う奇妙な瞬間が訪れた。
一瞬だが永遠の時間だ。
触れそうで触れない、絶妙な距離を取ってブロック婆さんは顔を真っ赤に染めた大打撃の前で、眉をしかめ、頬を赤らめ、困った顔をしてすっぽんの様に首を伸ばしたり縮ませたり、左右に振って、意味不明なフェイントの様な動作を繰り返す。
顔の振りは、天性のボクサーの様に素早く精悍な動きだ。
「どけぇ婆、公務執行妨害で逮捕するぞ~」
堪らず大打撃はそう叫んだ。
「ごめんなさい、お兄さん警察の方なのね、やだわぁ~早く行ってくださ~い。ホントごめんなさい、私は道を空けますから。犯人逮捕、犯人逮捕に協力しなくちゃ~」
と言って、婆さんはその言葉とは裏腹に巧みにムーンウォークで再び左に出ようとしている大打撃の進路を見事に塞いでしまった。
「ぐぐぐっ~」
「早く行って~早く行って~」
そう言いながら、泣きべその顔になったブロック婆さんはカーゴを体の周りに回転させ、両手の持っているバックを左右に振って、何故か激しく腰も振り始めた。
彼女はその5メートル幅の連絡通路全体をたった一人で完全にブロック、遮断してしまった。
その間ほんの30秒ほどだが、もう駄目だ。
この時、大打撃は犯人の姿を見失ってしまっていた。
「行けるわけないだろう、俺の進路を塞ぐなぁ~!!」
大打撃が息を切らせて、そう叫んだ時、桜木が別の通路から大打撃とブロック婆さんの対峙している間に走り込んで来た。
「大打撃さん、見失いましたぁ~黒い男」
犯人は、おそらく犯罪経験を積んでいる逃走経験者なのだろう。
現代は下手に人通りの少ない裏道とかに逃げ込んでしまうと、警察を巻くどころか防犯カメラで逃走経路を予測され、警察官に包囲されてしまう危険性がある。
逃走に慣れている犯人は、むしろ人混みで追っ手の警察を巻き、監視カメラの死角に隠れ、そこで着替えて、駅のホームから列車を使って悠々逃走を図ろうとしているのだろう。
JR港町駅にはバリアフリーの多目的トイレが設置されている場所がある。
そのトイレに港町署の敏腕刑事仏が入り、便座に座って悠々と用を足していた。
シルバーの特権というやつだ。
「うぉあいゅれッとが心地いいのう、うふっうふっ」
仏はウォシュレットを使い、更にテッシュで丹念に尻を拭いて、手すりに手を延ばして便座からゆっくりと立ち上がった。
彼は忘れ物がないように、慎重に周囲を確認しトイレから出ていこうとした。
その時だ、突然トイレのドアが外から開き、黒い覆面をした男が周囲に目配りしながら金庫をもって仏がいる多目的トイレに、うしろ向きに飛び込んで来たのだ。
港町署からの犯人逮捕の増援要請で、署から駅に向かってきた仏刑事は、署で容疑者の容姿外見について覚え込み、警察無線を聞き、犯人の服装までもしっかりと頭に入れていたのだ。
「お前は警察に通報が入った殺人者、宝石強盗の犯人だな」
仏刑事はそう言って、自分の左手で男の右手を素早く後ろ手に搾り上げ、右手で手錠を出した。
ベテラン刑事の慣れた手付き、修練の早業だ。
咄嗟の事で黒覆面男は、何が起こったのかわからず、その場から動けない。
男が唖然として叫んだ。
「刑事~なんでここに入ってるんだよ? トイレは「空室」表示になってただろう。おかしいだろう。あんたなんで鍵掛けてないんだよ? どうして中にいるんだよ、よりによって刑事がぁ~」
「儂はカギを掛けたよ。キサマは錠前破り、器物破損現行犯で逮捕だ!!」
「? ? ?」
そう言って仏刑事は、左手で大打撃が取り逃がした犯人の手に手錠を掛けた。
「このボケ爺い~」そう言って男はがっくりと首を垂れた。
その翌日、仏刑事は自分のデスクに座って、窓の外を眺めていた。
「お茶入れてきましたぁ~」
「おおっ桜木君か……気が利くなぁ~、どうれぇ~いただこうかなぁ」
「昨日はお手柄でしたね、仏刑事」
「昨夜、はてなんのことだか?」
「もぅ~仏刑事ったらとぼけるんですかぁ~」
桜木はそう言って、軽く仏の背中をさすった。
「あ~あ~いやっなんてことはない。儂が駅のトイレに入っていた時、用を足して一息ついて出ようとしたら犯人の方から儂の懐に飛び込んで来たんじゃよ。飛んで火にいる夏の虫と言うか、ハチ合わせじゃ。たまたまじゃ」
「そうですかぁ、長年培った刑事の勘で、犯人がそこいらに逃げ込んで来ると考えて仏さんはおトイレで、犯人張ってたんじゃないですかぁ?」
「そんな事あるかい、偶然じゃよ。はっはっはっ……そうでもないか」
桜木はそう言って天井を見詰める仏の表情を見て、その言葉が本心かどうか判断できない。
「ほら、やっぱり」
「冗談はさておき、わしもそろそろ年じゃ、引退を考える時が迫って来たような気がしてな」
「そんな、まだまだ若いですよ、仏さんは。どうしたんですか、急にそんな事言い出して」
「以前からそんなことをつらつら考えていたんじゃが、今になって昔迷宮入りさせてしまった事件の事がしきりに思い出されてなぁ~。それが引退を前にすると、なんとも心残りでなぁ~。それさえ解決できれば、儂も心おきなく引退できるんじゃが。奥歯に挟まった魚の小骨のようじゃな」
「そんなに心残りなんですかぁ~。仏刑事の心に引っ掛ってる事件て……、いったいどんな難事件なんですか?」
「聞きたいか、お茶ノ目さん?」
「桜木です」
「そうか、それなら少し話そうかな」そう言って仏刑事は、昔捜査していた難事件の話を始めた。
7日間の海外クルーズで太平洋を周回する巨大豪華客船ゴールデン・レトルト号は、2000人の乗客の中にお忍びで訪日しているアイルランドの大使団一行を乗せて、一路フィリピンに向かい航路を取っていた。
そう仏は話し始めた。
その船には大使一行の護衛役として、港町署の大打撃、中森とき子、そして若き日の仏刑事が乗船していた。
そこまで話して、仏刑事は桜木の顔を見て、一息ついた。
「当時、大打刑事とペアを組んでいたのは、中森刑事だったんですね?」
そう桜木は仏刑事の話に口を挟んだ。
「そうじゃ、いやいやお前さんだったかなぁ? 桜木巡査?」
「違いますよ。私じゃありません」
「すまん、すまん、そうそう、思い出した。中森と呼ばれていた大人しい小さい婦警さんが同行して来ていたなぁ~」
「大丈夫ですか? 仏刑事」
「無論大丈夫じゃ」
桜木は、仏刑事のどこからどこまでが大丈夫なのかと思ったが、とりあえず全般的に大丈夫かとふわっと聞いてみた。
「今でもあの夜の事は鮮明に思い出される。まるで今日昨日、現在過去未来起こった事件のようにな」
「それならいいんですけど……」桜木はやっぱり全然大丈夫じゃないかもと思った。
日本を発った2日目の夜、あの忌まわしい事件は起こった。
スコットランド大使が110号で何者かに殺されたのだ。
桜木はさっきの仏刑事の説明と国名が違うと思ったが、黙っていた。
死因は背中から一突きだった。凶器に使われたのは船のキッチンにある食事用のナイフだ。
それで大使は、上半身裸の状態で刺されたのだ。
「一つ気になったのは……」そこで仏刑事は、ぼそりと何か言い掛けた。
「はぁ、なんですか?」
桜木は、仏のその言葉の続きが気になって待った。すると……。
「桜木巡査、これって洒落なんだが、分かってくれたかなぁ?
「はぁ?」
「一つ気になったと『一突き』のな。駄洒落です。ふぁふぁふぁ~」
仏刑事は、少し照れ臭そうに自分のダジャレの解説をした。
桜木は少しむっとして、仏に言い返した。
「仏刑事、これじゃぁ話が先に進みません。休憩時間終わっちゃいます。迷宮入りした仏刑事のなんとも未練の残る難事件の話、先を急ぎましょう」
「そうじゃな、そうじゃな」
大使はその日、大食堂で夫人のミッドウェイと食事を共にした後、一人で先に部屋に帰って行った。
彼は昨日イギリスから来た同乗している冒険家コルメット卿とのチェスの試合の負けが心残りだったようだ。
110号室と言うのはコルメット卿の部屋だ。
婦人より先に部屋に戻ると大使は彼女に話していたようだが、チェスの局面を再現させて敗因を突き止めると婦人に話して、食事の席を立ったという。
これは夫人の証言だ。
大使は自室に戻らず、コルメット卿の部屋に向かった様子だ。
110号室に大使が着いた時、そこには残念なことにコルメット卿はいなかった様だ。
後で分かったことだが、卿は下の階でビリヤードに興じていた。
勝負が熱くなって、到底部屋に戻れる状況ではなかった。
そこには何人ものビリヤード仲間の友人が遊興していたので、確かなことだ。
その時、コルメット卿の部屋の鍵は開いていた。
卿は仲の良いオークランド大使が遊びに来るかもと、部屋の鍵を開けたままにしておいたそうだ。
なんとも不用心だが、貴族って言うのは優雅な人種なのか……仏刑事はそう続けた。
「そうじゃ大打撃は後から我々の乗船している船にやって来たが、あの時何か熱っぽかったような……風邪でもひいていたのか……」
「良くそんな細かい事、覚えてますね」
桜木は仏刑事の記憶力に驚いた。今の彼とは大違いだ。
「昔のことは、部分的に何故か鮮明に思い出されることがあるんじゃ。あの時、大打撃は鼻の頭に真っ赤なオデキを作ってたな、風邪ひいて鼻のかみ過ぎだったのかな、はっはっはっ」
「それで……」
桜木は、両手の平を見せて仏の胸を押す様な仕草をして、彼の話の先を急がせた。
大使夫人は、食後のティータイムを友人のキャサリンと過ごし、その後2階下の社交場に降りてダンスを楽しんでいたと、夫人自身から事件の後で話を聞いた。
事件の翌日、儂が聞き込みで船長から聞いた話だが、大使と夫人は乗船前から不仲を噂されていたようだ。
儂らは当初から夫人のアリバイを気にしていたが、事件のあった昼食後、夫人はほとんどの時間はキャサリンと過ごしていたようで、彼女のアリバイはほぼ完璧に思えた。
室内や、ナイフから指紋を取るにも、鑑識の検査薬や道具は持ってきていない。そんな事より、国際問題に発展することの方を署では気にして、何度となく署から連絡が入って来ていた。
失礼な聞き込みはするなということだ。
しかし、悠長なことは言ってられなかった。
船が次の停泊地香港に到着するのは4時間後。
そこで犯人は何気ないふりをして、客船から降りてしまうかもしれん。
儂は焦りに焦った。
こうして事件は迷宮入りしてしまうんじゃが……。
船は再び港を発ち航海を続けた。
そして犯人が見つからないまま、3日間が過ぎた。
船はオーストラリアのシドニーに着いた。そこで夫人とキャサリン、大使の遺体は客船から降りたと思う。
その頃、夫人は鼻の頭に真っ赤なオデキを作ってた。
覚えてるぞ、まるで乗船してきた時の大打撃みたいだった。
彼女は鼻を隠してマスクとかしてるんで、不思議に思って船医に話を聞いてみたんだ。
すると船医がこっそり儂には教えてくれたんじゃ。
夫人が乗船中に人目を忍んで診察に現れてな、鼻のオデキを見て欲しいと船医に話したんだそうだ。
患者のプライバシーがあるので、船医はその事は話辛そうだったが、殺人が絡んでいることなんで儂は強引に聞き出したんだ。
船医がオデキを調べ、それが性病だと婦人に伝えたら、顔を真っ赤にして激怒したらしい。
彼女は性病を移されるような、そんな不純異性交流はしないと泣き叫んで、医者の部屋から飛び出したんだそうだ。
船医を名誉棄損で告訴してやるとか言ってな。
そこまで話すと仏刑事は、何かを思い出したように険しい表情になった。
「そうじゃ、横浜港から出港した直後、大打撃のヤツは大袈裟にも海上警察のクルーザーで客船を追いかけてきた。客船にクルーザーを横付けして乗船してきたんじゃ」
「彼、その日はなんで乗船に遅れたんでしょうか?」
「パチンコだったか、競馬だったか……」
「やっぱり、そこは思い出さなくて良いです」
桜木は話を本筋に戻そうとした。
「そう、それでやつぁなんだか調子が悪そうじゃったんだ。乗船した後、船酔いだとか言って手近な一般客室に許可も取らずに飛び込んで、げーげー吐いとったのか……あれは船酔いだったのか」
「それで?」
「そうだ、思い出したぞ。大打撃が乗船した直後、飛び込んだ部屋が110号室だ」
仏刑事はそこで何かが繋がった様な気がした。
今まで謎だった部分、見えない糸の先が手繰り寄せられたのだ。ミッシングリングを発見した様な気持ちになった。
「分かったぞ、お茶ノ目君」
「桜木です」
「犯人は、実はミシシッピー夫人だ」
「ミッドウェイ夫人ですか?」
「そうそう」
「どうしてですか?」
「夫人の証言を追ってみると、食堂で大使と別れた1300の後、自室に帰るまで2時間も下の社交場でキャサリンと過ごしている。その間、何度かキャサリンが眼を離した時があっても不思議ではない。
大使がコルベット卿の部屋110号室で遺体で発見されたのは、1330。大打撃が110号室に飛び込んだのは、1250.」
桜木は登場人物の名前が変わっていると思ったが、それを正すのもめんどくさくなって黙っていた。
「それだと、大打撃刑事が犯人になりませんか?」
「違う、大打撃は大使に会っていない。むろん夫人やコルメット卿にもだ。彼は事件後、船の中でオーストラリアに着くまで儂にあれこれ愚痴ってたんじゃ。港町のキャバレーのサービスタイムに女の股座に顔を埋めたら、安いピンサロの姉ーちゃんに悪い病気うつされたとか。どうやらそこでヤツは梅毒に感染したんだろう……梅毒は感染した部位に出来物がな」
「はぁ~若いうちから大打刑事は自業自得ですね。梅毒って感染した場所に赤い腫れが出るんですか……それで大打撃刑事の鼻の頭に赤いおできが出てたんですね」
「そう、奴が乗船してきた時の微熱も梅毒が原因で体調を壊し掛けてたんだろう。そこで彼は気分が悪くて乗船直後に手近な部屋、カギの開いていたコルメット卿の部屋に飛び込んで、吐いて顔を洗った。そこにある手時かな濡れタオルで顔を拭いた……」
仏刑事の話を聞いて、桜木はその後を繋げようとした。
「それで……」
「大打撃はそこで部屋を出た。誰にも会わずにだ。大打撃が部屋を出た後、大使が部屋に入ってくる。そしてその大使の後を追って、人に見られないように周囲に気を配ってコルメット卿の部屋に入って来た夫人は、夫を刺殺した。しかしそこで顔に返り血を浴びたのか。手近なタオルでナイフやドアノブの自分の指紋を拭き取り、そこで、ついつい自分の鼻の頭の返り血をぬぐってしまった。まさかそんなところに大打撃が狙ったように、梅毒菌を擦り付けてるとは思わなかっただろうな。人生どこに災難が転がってるかわからんな。それで上流貴族の貴夫人は、あろうことか鼻から梅毒感染してしまった。上流階級の貴婦人が浮気もしてないのに梅毒に掛かるとは……それも大打撃の……天罰かのう~」
「夫人はその2日後、船の医者の誤診だとか、自分が性病になんて掛るわけがないとか騒いどったからな。これで謎は解けた。犯人は夫人だ。長年儂の喉に引っ掛かっていた小骨が取れた。ついに迷宮入りの事件が一つ片付いたんだな」
仏刑事はそう叫んで、椅子から立ち上がりガッツポーズを取って見せた。
桜木はそのすっきりした顔の仏刑事を見た途端、異様な不安に襲われた。
老人の妄想が、脳内で事件を解決に導いたかもしれないと思ってしまったのだ。
そこで、彼女はすぐに仏刑事のデスクのパソコンを起動させて、事件ファイルを探し始めた。
「あのう~仏刑事、この仏刑事のデスクに置かれているパソコンを私今、検索して見たんですけど……スコットランド大使殺害事件……」
「なにかな?」
「パソコンに入ってる過去の事件データ、調書では既に大使殺害事件は解決されてます。梅毒感染で感情的になり、激怒した婦人は下船直後大打撃に銃を向け、それによって夫の殺害がバレ、その後自供とありますけど……」
「あれ、解決したんだっけ? この事件」
「はい、仏刑事のお手柄と調書には書かれています。当時の鋭い名推理でしたね」
「事件後半の記憶が飛んでいたか……儂としたことが」
桜木はそう言って、未解決の方が妄想だったのかと驚いた。
「はぁ~それじゃあ私、仕事に戻りますね。大打刑事案件で片付けなきゃいけない書類が山の様で……」
そう言って桜木が仏刑事のデスクから離れようとすると、そこに警察官が飛び込んで来た。
「仏刑事!!」
「なんだ、また何か新しい事件か?」
「脱獄です」
「なに、誰だぁ~?」
「昨日仏刑事が逮捕した、あの凶悪殺人犯がすぐに脱獄、逃亡しました」
「なんだと、儂がこの手で地下の牢屋に拘留したのに、金庫破りの名人は脱獄も早いのか。一体全体何が起こったんじゃ」
「あのぅ……仏刑事……、その時カギ閉めましたか?」
警察官が怪訝そうな顔付で、とても聞きずらそうに仏刑事に尋ねた。
「なに、鍵はもちろん閉めたよ、間違いない!!」
「…なんか…監視カメラの映像みると、拘留所のカギ閉まってなかったみたいで……犯人あっさりドアを開けて逃亡……」
「あれ?」
桜木はそこまでの話を背中で聞いて、ため息を付いて、思わず頭を抱えうずくまった。
「仏刑事……本気で引退を考える時期かも……」
彼女は思い直して立ち上がり、外出の用意に掛かった。
すぐに昨日の殺人の殺人犯を再逮捕に向かわないといけない。
おしまい
「ミッドウェイ夫人大激怒」をPDFで読む(402KB)
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